年賀状博士がエピソードで綴る年賀状の歴史的事実と発達の経緯

エピソードで綴る年賀状の歴史4/4

印刷技術の進歩が美しい私製はがきを作った

一気に伸びゆく年賀状

明治38年に1億枚(推定)を突破した年賀状は、明治39年末に郵便規則が施行され、取扱期間が12月15日〜29日と定められたこともあり、明治40年の年賀状は2年前の4倍に近い4億枚に達した。(年賀状の4億枚という数字は、この年度の全郵便物の30%を超える数字だった)
明治39年用の年賀状を機に、それまでとは一線を画する美しい私製の年賀はがきが市販されるようになり、年を経る毎にその枚数(種類も)増えていいった。
明治42年(戌年)の年賀状に至っては1500種類を超える絵葉書が市販され、街の絵葉書屋が賑わった。

明治42年12月の新聞(二六新報)におもしろい記事が載っている。

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子供用の年賀絵葉書は明治にもありましたが、大正に入って普及し、数多くの子供用の年賀状が発行された。

年賀状を集める事を趣味とする人たちが市販のものを集めるだけでは気が済まず、自作の趣味の年賀状を交換しあうグループが京都から始まって、東京・名古屋や大阪にも誕生した。はじめは会員を募り、名簿をもとに各々が年賀状を送りあっていたが、数年後には主催者の許へ会員全員が必要枚数のはがきを送りつけ、主催者が美しいアルバムに仕上げ、全員に発送する形へと変わっていった。

大正12年9月の関東大震災のため、この年の年賀状特別取扱いは休止されたが、昭和に入ると段々と戦時色が強くなり、8.5億通にまで増えていった年賀状は、昭和14年頃より減少、昭和15年末からは当分の間年賀特別取扱は休止され、昭和16年の年賀状は2700万通まで激減した。

戦時色が強くなる中で、ほとんどの趣味の年賀状交換会は消えていったが、武井武雄の主催する芸術家集団の交換会は水面下で活動を続け、物資が極端に不足していた昭和20年にもその活動を完遂している。(榛の会)

お年玉付き年賀はがきの誕生

昭和24年6月21日の明け方、京都に住む林正治(はやしまさじ)さんの頭の中に、寄附金付き年賀専用はがきのイメージが浮かびました。紆余曲折はありましたが、その年の12月1日には、お年玉つき年賀はがきが発売になり、現在に至っています。この年に発行された年賀はがきは、1.8億枚でしたが、寄附金なしの2円が3000万枚、寄附金付きの3円が1.5億枚と圧倒的に寄附金付きが主流でした。今の金額に直すと、一般が50円に対して、寄附金付きが75円ということになり、その当時の日本人の助け合いの気持ちがよく伝わってきます。(ちなみにこの年の2円の年賀はがきにはお年玉くじはついていませんでした)